東京 錦糸町「海賊」は老舗炉端焼き屋なのです〜海賊創業について書きます

錦糸町炉端焼き海賊

「海賊」は昭和52年(1977)創業の炉端焼き屋です。

このブログを書いているわたしは二代目で創業はわたしの父親です。

ここでちょっと父親の紹介をさせてください。

この人が創業社長。なんかカッコつけてます。

父親は昭和11年生まれ群馬県出身。高校を卒業をして上京してサラリーマンになりました。

その後、脱サラして飲食業界に参入したそうです。

一番最初に経営したのは六本木でサパークラブ。その後、大塚で大衆割烹をやっていました。

この大塚の店はわたしも覚えています。

そんな中、新聞の折込広告で現在の海賊の物件を見つけました。

実際に現場を見て、直感的に「ここはいい場所である」と思い直ぐに契約したそうです。

そして「炉端焼き」をやろうと思ったそうです。

何故に「炉端焼き」にしようと思ったのか

その頃、大阪の方で炉端焼きという業態が流行っているらしい聞きつけたのと、もう一つ大きな理由だあったそうです。

それは「職人を出来るだけ使いたくない」という思いだったそうです。

いまでこそ癖の強い職人さんは少なくなりましたが、当時の職人さんは癖が強くてとても苦労したそうです。

親方という人がトップにいて、親方を中心にしたグループが形成されていました。とにかく親方が厨房で一番偉いのです。

料理屋ですから料理が出なければなにも始まりません。

なので実質的に厨房の権限が強くなっていきます。

すると厨房の長である料理長の権限がとても強くなります。

なので経営者といえども厨房を気にして料理長の顔色をいつも伺っていなければならないような状況だったそうです。

万が一親方の機嫌をそこねてしまい、親方がお店を「上がる」(飲食業界ではお店を辞めるときに「上がる」って言うんですよね)と言い出すと一大事です。

厨房全員いなくなってしまうという事態になりかねない。

翌日に厨房が全員いなくなってしまう。などという悪夢のような事が現実に起こってしまうかもしれない世界だったそうです。

そんな理由から、父親はいつもいつも親方の顔色を伺っていたそうです。

そして父親は、職人さんの顔色を伺いながら経営するのに疲れてしまいました。

そりゃそうだ、わたしなんかそんな状態で経営していたら夜もまともに眠れないでしょう。

そう考えると父親苦労してたんだな、、もっと生きている時に優しくすれば良かったと思いました。

などと話題がそれたので話を戻します。

なので新店舗を始めるにあたり、まず始めに職人さんの顔色を伺わなくすむ業態にしたいと思ったそうです。

炉端焼きというのは大阪で流行っているらしい。

その上本格的な職人を使わなくていいらしい。と聞きつけて「炉端焼き屋にしよう!」と思ったそうです。

これが海賊が炉端焼き屋になった理由です。

ちなみに「海賊」と言う名前はどうして付けたか聞いたことがあります。

すると父親の答えは、

父親

「なんか豪快そうだし、新鮮そうだし、海鮮を扱うし、要するになんとなくだよ。よく覚えていないし。ワッハッハ」

と言われました。

父親はわたしとは全然違ってラテン系の豪快で明るい人でした。

そんな感じでつけられた店名が40年以上残るのですから不思議なものです。

「炉端焼き 海賊」大当たり

そして錦糸町にオープンした炉端焼き海賊は大当たり。

オープン初日から大行列したそうです。

父親はオープン初日からまさか行列をするとは思ってもみなかったようで、諸々の用意が十分でなかったようです。

何が無い、これが足りないと営業しながらテンテコ舞いしたそうです。

なんでそんなに流行ったのでしょうか。

最近お付き合いしているコンサルタントさんと話をしていたら、海賊は繁盛店の要素と言われているポイントを全て持っているそうです。

計算してやったとは思えないけど父親すげーと思いました。

(当時の事はもちろんわたしは知りません。小学3〜4年生の頃だったと思います。)

当時の海賊

当時の海賊は、いまお座敷になっているところもカウンターで、カウンター席しかありませんでした。

ここがカウンターでした。

カウンターの中で目の前に陳列してある魚や野菜を注文して、目の前で焼いてくれる。

そして長ーいヘラで料理を出してくれるなどの面白さ。

写真は40年変わらぬ大串の焼鳥です。

そして会計も安い。当時はなにを飲み食いしても250円均一でした。

なので会計は皿の数を数えての会計。

など色々な要素が絡まったのではないでしょうか。

おかげさまで海賊はスタートから繁盛したようです。

という訳で

錦糸町の老舗炉端焼き屋「海賊」このようなスタートしたのです。

3年後には神田にも海賊二号店をオープンして、この頃から数年間は父親はノリノリだったと思います。

この後、奥さん(わたしの母親)が交通事故で亡くなったりして山あり谷ありですが、機会があれば書きたいと思います。